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​裁判を終えて

 竹田恒泰氏が山崎雅弘さんを名誉毀損で訴えた裁判が、2年3か月をかけて4月に終わりました。その経緯は山崎さんご自身が詳細に書かれている通り、完全勝訴でした。

 単に、原告の訴えに十分な根拠や合理性がなかったという司法判断にとどまらず、このような「スラップ訴訟」によって司法を道具的に利用する原告に対する司法の側からの手厳しい「訓戒」が判決文の行間に読み取れると山崎さんが書かれている通り、これは「訴えを起こした竹田氏自身がむしろ裁かれた裁判」であったと思います。地裁、高裁の判決文をお読みになれば、多くの方が同じ印象を持たれるはずです。そういう意味では司法の良識を示した「歴史的な判例」と申し上げてよいと思います。

 この判決をひとつの契機として、権力、財貨、人脈などで強固な基盤を持つ「社会的強者」が孤立した私人の言論や活動を委縮させるために行う「スラップ訴訟」は、世界の司法の趨勢をもふまえて、以後は抑制的なものになると私は期待しています。

 

 今回の裁判について私がこれまで述べてきたことは一貫して同じです。それはこれが二人の言論人の間で起きた「言論にかかわる」事件である以上、言論の場で決着をつけるべきことであり、もとより司法判断にはなじまないものだったということです。

 問題になっているのは山崎さんが竹田氏に対してなした「論評」の当否です。竹田氏は、他者がなした「論評」の当否について弁じることができないという立場の人ではありません。「論評」を生業としている人です。

 そして、山崎さんの「論評」に反論することはまことに簡単でした。それは「差別主義者ではない」ということを立証すれば済むことだからです。彼が「差別主義者たちと戦ってきたこと」の事例を一つ挙げるだけでも、あるいは隣国の人々や在日外国人たちから「竹田氏は私たちの権利と自由を守るためにこのように戦ってきてくれた」という感謝の証言を一つ引けば、それだけで十分でした。それさえあれば「差別主義者」という「論評」が事実無根のものであることを言論の場では堂々と論証できます。司法判断を仰ぐまでもありません。

 しかし、竹田氏はその最も簡単で、最も効果的な手立てをとらなかった。たぶん、彼が「差別主義に反対してきた」ということを証する適切な事実を見つけ出せなかったからでしょう。でも、その場合でも言論人ならできることがあります。それは「差別的」とみなされるリスクのある文章についても、そこに他国民・他民族を攻撃し侮蔑する意図を読み取るのは誤読であって、そこには他国民・他民族に対するまったくの無関心かあるいは親愛や敬意を読み取るべきだと論証することです。テキストついての解釈上の論争というのは学術の世界ではよくあることです。テキストの「誤読」を退け、「正しい読み」を提示することに学者たちはしばしばその威信を賭けます。しかし、竹田氏はこの方法も採らなかった。

 なぜ言論人であるにもかかわらず、言論によってなしうるいくつもの論証を忌避して、裁判に訴えたのでしょうか。「論争では勝ち目がないが、裁判なら勝ち目がある」と考えたのでしょうか。そうかも知れません。

 竹田氏は訴訟をある種の道具のように考えているということを前に指摘しました。このような「司法=道具」観を持つことができるのは、司法には固有の威信と自律性があるとは考えていない人です。司法は時の権力に対して従属的であり、「権力の近くにいる人間」に対しては例外的に好意的な配慮を示すというのは、反体制的な人たちがよく口にする司法批判ですが、あるいはそういう司法を蔑する態度は「権力の近くにいる人間」のうちにこそむしろ深く浸透していたのかも知れません。

 しかし、司法は原告の期待を裏切って、ごく常識的に、竹田氏を「差別主義者」と呼ぶ山崎さんの論評には相応の根拠があるという判定を下しました。地裁判決文にはこう書かれています。

 

 「『中国の話』及び『韓国の話』における原告の記述は、中国人及び韓国人全体を対象として、その国籍又は民族に伴う属性を指摘し、その『民度』の低さを主張したものであり、また、あえて不穏当・侮蔑的な表現を多数用いて、他国民・他民族を劣位に置き、『笑い』の対象としたものというほかない。」

 

 「原告自身も他国や他民族、原告と意見を異にする活動者などに対する批判的意見を加える際に、あえて攻撃的で侮蔑的ともとれる表現を多数使用し、読者が感得する当該批判的意見の対象への否定的評価を一層高める手法を少なくない頻度で用いており、このような表現の内容・様態に鑑みると、原告としても、一定の批判は甘受すべきであったといえる。」

 

 このような判決が下ることを竹田氏はまったく予想していなかったのでしょうか。私はそうは思いません。もしかしたら負けるかも知れないということが予測できる程度の法律的知識はあったはずですし、原告側弁護士も職業的良心に基づいて「敗訴の可能性もあります」ということは進言したはずです。それにもかかわらず、彼は多額の弁護士料を投じて訴訟に踏み切りました。

 それはこの訴訟が山崎さんに物心両面でのストレスを与え、その生業を妨害することを目的とする訴訟だったからというのが最も蓋然性の高い解釈だと思います。

 事実、山崎さんは訴えられて以後2年3か月にわたり、裁判の準備のために弁護士と話し合い、膨大な資料を渉猟し、長文の準備書面を仕上げ、多額の裁判費用を負担することになりました。さいわい、「支援する会」のみなさんが経済的負担は肩代わりしてくださいましたけれども、裁判のために山崎さんが費やした個人的な時間と心的な疲労は取返しがつきません。

 裁判のせいで、その間に山崎さんが成し遂げることのできたはずの仕事のいくつかは日の目を見ることができませんでした。それは山崎さん自身の生業が妨害されたというにとどまらず、山崎さんが発表し、私たちが読むことができたはずの著作物へのアクセスが妨害されたということです。山崎さんが訴訟に巻き込まれることがなければ享受できた知的生産物へのアクセスを妨げられた「潜在的な読者たち」全員が、ある意味ではこの訴訟の「被害者」だとも言える。

 そして、私はまさにそのことがこの訴訟の本旨であったのだろうと思います。山崎さんに物心両面でのストレスを与えること、その著述活動を妨害すること、山崎さんの言説に読者が触れる機会を制限すること、それによって最終的には山崎さんが世論形成に及ぼす影響力を減殺すること。それがこの訴訟の本来の目的だったと私は思います。だとすれば、この訴訟はその最終的な勝敗にかかわらず、訴えを起こした時点で原告側が「半ば勝っていた」ことになります。

 スラップ訴訟というのはまさにそういうものです。どのような無根拠な訴えであろうとも、司法がいかなる判断を下そうとも、訴えを起こした時点で、その目的の過半が達せられるというのがスラップ訴訟です。ですから、いまも竹田氏はこの裁判については「勝った」という総括をしているだろうと思います。山崎さんの仕事を妨害し、その社会的影響力を減殺することにはたしかに成功したからです。

 しかし、これはまことにアンフェアなふるまいであり、社会的に許されてはならないことだと私は思います。このようなアンフェアなふるまいを平然と行う人間には、それにふさわしい「社会的制裁」が加えられるべきです。

 裁判は終わりました。けれども、このまま竹田氏が「勝った」と総括することを許すわけにはゆきません。山崎さんはこれからこの裁判の経緯を記した「戦記」を書くと宣言しています。言論の問題についての決着は司法判断で終わるわけではありません。言論の問題は言論の場で決着をつけなければならない。それはこの裁判の現実が示しています。山崎さんは完全勝訴したけれど、山崎さんが失ったものは勝訴したからと戻ってくるわけではない。それは言論の場で取り戻すしかない。ですから、山崎さんが失った以上のものを言論の場で取り戻すまで「戦い」は続くはずです。

 裁判を物質的にご支援くださったみなさんには引き続き山崎さんの言論の場における戦いについても精神的なご支援をお願いしたいと思います。

 

 2022年4月 内田樹

2022.5.8「裁判を終えて」
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