〈代表呼びかけ人・内田樹〉
2022年4月13日、山崎雅弘さんに対する竹田恒泰氏の上告が最高裁によって棄却され、山崎さんの勝訴が最終的に確定しました。
これまでご支援くださった皆さんに心から御礼を申し上げます。
2022.5.8.更新
2022.5.8 更新
2022.5.8 更新
2022.5.8 更新
2022年5月現在、総寄付者延べ1414人。寄付総額12,039,686円。
諸経費を引いて残高は9,595,419円となっております。
ご支援くださった皆様のご厚志に重ねて感謝申し上げます。
地裁判決と控訴審に向けて
2021年2月5日の東京地裁判決については、直後にツイッターで全面勝訴のご報告を申し上げました。地裁判決は原告の請求をすべて棄却し、原告に訴訟費用の支払いを求めました。
地裁判決はきわめて常識的なものだったと思います。
最初に支援する会を立ち上げるときに書いた通り、僕はこの問題は「言論の場」において理非を決すべきことであって、みだりに司法機関に裁定を求めるべきではないという考え方をしてきました。それは言論の場というのは、長期的・集団的には理非の判定において過たないという確信があるからです(短期的、局所的には過つことはよくありますが)。何が残るべき言葉で、何が淘汰される言葉であるかは、「場」が判断する。それくらいには「言論の場」の判定力の正しさを僕は信じています。ですから、竹田恒泰氏が山崎雅弘さんの論評を「不当」であると思ったなら、それは言論の場において理非を問うべきだったと思います。裁判に勝った今でも、その考えは変わりません。
言論の場の判定力を信頼するというのは、言論で口を糊する人間としては当然のことだと思います。しかし、原告竹田氏はその道を選ばずに、経済的な優位性を楯に、名誉毀損裁判に山崎さんを巻き込むことで、その生業を妨害するという手立てを採りました。経済的に不自由のない一般人であれば、そういうやり方もあるいは敵を叩き潰す上では合理的な選択なのかも知れません。しかし、言論人である以上は、言論の場で起きたことの理非の決着を言論の場以外に求めるべきではないと僕は思います。 それは言論の場の判定力を「信じない」と宣言したに等しいからです。自分がその判定力を信じない場に言葉を差し出す人は、いったい何をしようとしているのか。それは裁判の判定力を信じない人が、司法機関に理非の裁定を求めるに等しい倒錯したふるまいです。
そして、東京地裁判決の判決文を読んで、どうしてこんな「当たり前」の判決を引き出すために、弁護士や裁判官たちの貴重な時間を費やさなければならなかったのか、残念な気がしました。この法曹たちが費やした時間とエネルギーはもっと有用な仕事に用いられるべきではなかったのか。司法資源の「無駄遣い」ということを言う人はあまりいませんが、司法資源もまた貴重な公共財・かけがえのない社会的共通資本です。そうである以上は、私人が私利私欲を満たすため、私怨を晴らすためにみだりに用いるべきではないと僕は考えています。
地裁判決について僕から申し上げることは、これが「きわめて常識的な判決」だったということに尽くされます。
ある人を「差別主義者」と呼んだことの当否を決することは少しも難しいことではありません。「自分は差別主義者ではない」ことを証明すれば済むことです。原告自身が隣国との宥和や在日外国人の権利擁護を訴えたテクストを証拠として提示すれば済むことです。あるいは原告の保護や支援によって差別主義的な迫害や攻撃から「守られた」と証言する人を連れてくれば済むことです。でも、原告はそれをしませんでした。
山崎さんがくわしく調べて証拠として提出した通り、原告の発言履歴には隣国人へのいわれない罵倒はあっても、彼らを擁護する語はありませんでした。
もう一つ、教育委員会への批判について。差別主義者として知られた人物を講師に招いて、中高生相手に話をさせようとした教育委員会には著しく社会的常識が欠けていたと僕は思います。けれども、ある公的機関に十分な見識があるかないかもまた裁判で決すべきことがらではありません。それもまた言論を通じて「見識が足りない」と指摘するだけで十分だと僕は思います。それに対して、この人選は適切であると教育委員会が信じるなら、言論を通じてその根拠を明らかにして、自治体住民の同意と支援を求めればよい。司法の手を煩わせるような話ではありません。
唯一、講演を暴力的に阻止するという脅迫メールを送った人物だけは司法の手できびしく処罰されるべきだと思います。これについて異論のある人はどこにもいないはずです。
しかし、山崎さんは教育委員会や講師への暴力を使嗾したわけではありません。差別主義者は講師として不適切である、教委には見識がないという論評を行っただけです。そして、地裁判決はその論評は「相応の根拠」があるものだから、名誉毀損には当らないと判断しました。
それに、ある人物を「批判した」ということと「批判された対象に暴力をふるってもよいと煽動したこと」とはまったく別のことです。批判の言説がただちに暴力使嗾として解釈されるということになれば、この世から言論の自由はほとんどなくなってしまいます。
2月5日に地裁判決が下りましたが、控訴期限が切れる前に原告から控訴するとの申し出がありました。これで高裁での控訴審がまた始まります。さいわい、裁判費用はみなさまからのご支援のおかげで、まだ1000万円を超える蓄えがありますので、心配ありません。訴訟を通じて、被告側に経済的負担を課して、その生業を妨害するという「スラップ訴訟」は不可能になりました。
しかし、原告は地裁での全面敗訴のあとに、いったいどのような論拠をもってこれを覆すつもりなのか、僕にはよくわかりません。判決があきらかにしているように、ことは原告を「差別主義者」と評した山崎さんの論評に「相応の根拠」があるのかという問題に尽くされると思いますが、それについては地裁判決が「相応の根拠のある論評である」という判断を下しています。 それを覆すためには、原告は自分が差別主義者・自国優越思想の持主ではないということを証明しなければなりません。彼がこれから先の言動を通じてそれを証明してくれるのだとしたら、それはたいへん喜ばしいことですけれど、それによって過去の差別主義的な言動が抹消されるわけではありません。
訴審の経過については、これからまた山崎さんから随時ご報告があると思います。これからもどうぞご支援・ご協力を賜りますようにみなさんにお願い申し上げます。
2021年2月24日 内田樹